猫を失った。
猫が亡くなった。
大往生だ。
20数年生きた。
もはや悲しみとかなくて、ありがとうという感謝の気持ちしかない。
いにしえの古都にいた時から一緒だった猫。
僕が何者でもなく、何者かになろうとしてもがいていた時から一緒だった猫。
20数年一緒だったけど、僕は何者かになれただろうか。
免許はもらえたけど、相変わらず不出来な医者をしている。
「猫にとっては一緒か…」
もっと撫でてあげればよかったけど、コロナのせいでそれも叶わなかった。
もう僕は猫を飼うことはないだろう。
ペット可の物件に引っ越すことは現実的ではないし、飼える家を手に入れる頃には新しい猫との20年を楽しめる歳ではなくなっているだろう。
歳を取るとはこういうことなのかもしれない。
今後は黒猫を見るたびに、心が少し引っかかれるような気持ちになるんだろう。
さよなら、僕の猫。
ゆっくり寝てな。
大往生だ。
20数年生きた。
もはや悲しみとかなくて、ありがとうという感謝の気持ちしかない。
いにしえの古都にいた時から一緒だった猫。
僕が何者でもなく、何者かになろうとしてもがいていた時から一緒だった猫。
20数年一緒だったけど、僕は何者かになれただろうか。
免許はもらえたけど、相変わらず不出来な医者をしている。
「猫にとっては一緒か…」
もっと撫でてあげればよかったけど、コロナのせいでそれも叶わなかった。
もう僕は猫を飼うことはないだろう。
ペット可の物件に引っ越すことは現実的ではないし、飼える家を手に入れる頃には新しい猫との20年を楽しめる歳ではなくなっているだろう。
歳を取るとはこういうことなのかもしれない。
今後は黒猫を見るたびに、心が少し引っかかれるような気持ちになるんだろう。
さよなら、僕の猫。
ゆっくり寝てな。
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医師仮免許卒業。
いろんなことがありまして・・・でもようやく医師免許の仮免である、初期研修医という立場から脱却できた。
おめでとう、僕。
楽しいときもあったに違いないけど、今はつらい思い出ばかり思い出してしまって楽しかったことなど思い出せない。
うれしかったのは僕のブログを読んで、心配したリアルの知り合いが連絡を取ってくれたことだ。あれは嬉しかったな。
おかげでなんとか生きている。
就職先の病院はとてもいい待遇で、仮免上がりの僕を受け入れてくれた。これからはその恩義に報いるように働いていこうと思う。
僕が再受験していた頃にはブログは数個くらいしかなかった。それが今や検索してみるとたくさん出てくる。勉強法などの道標を示す目的で始めた僕のブログの役目ももう終わりつつある。
じゃあこれからは何を書いていこう。
「書きたいように書けばいいんじゃない?」
それがいいかもね。
今いる街は歩いてショッピングモールに行ける。そのショッピングモールの雰囲気が、琵琶湖付近に住んでいたときのショッピングモールと似ているもので、とても懐かしい気持ちにさせる。
何年も寝込んだり、留年させられたりと苦い思い出もあったはずなのに。
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僕はそんなに長く生きれない。

となると医者人生をどう生きるのか。これは僕と同じように30代で医学部に入った人なら考えることだろう。
9割の研修医は専門医過程に入るらしい。
正直、残りの1割になるのは怖い。だけど専門医過程に入っている間はあまり給料もよくないし(医者としては、の意味)、専門医を取ったといっても給料が格段に上がるわけではない。果たして専門医は十分ペイするのだろうか。寝込んでいる間は無給になるのだから、その分貯金ができるような進路を取ったほうがよいのではないだろうか。
それに・・・正直、指導という名のパワハラに合うのが怖い。スーパーローテーションの初期研修だから1ヵ月単位で済んだ。しかし後期研修となると年単位でパワハラに合う可能性もある。そうなったら多分もう助からない。10年くらいかけて実現した、医師として働くという夢が潰れてしまう。それだけは避けたい。
だけど精神科医のように薬だけではなく、交流によって人を元気にさせるような働き方をしたい。
そう悩んでいるとき、友人が訪問診療を勧めてくれた。病院に行きたくても距離的・体力的に行けない人のもとにいって治療をする働き方だ。これはいいんじゃないか、と思った。
そこからは就職あっせん業者を頼った。しかし初期研修上がりで雇ってくれるようなところはなかなか見つからなかった。それでも数件、面談をしてくれる病院があったので当直上がりを利用して何個か面談をした。
最初の病院は給料はべらぼうによかった。しかし、病棟を持たなくてクリニック単体。一人で車に乗って、採血とかも一人でするスタイル。これはしんどいな~と思った。次の病院は卒後3年にしては高給。病院の訪問診療部に属して、週4で病棟管理、残りを訪問診療するスタイル。これはいいんじゃないか、と思った。
医師として肩書のない人生を歩むのは勇気がいることだ。できれば専門医を取りたかった。しかし年齢がそれを許さない。
別に再受験をしたことを後悔しているわけではない。ストレートで医学部に入ってたらたぶん中退していただろう。
人生は戻ることができない。前に進むしかないのだ。僕はそんなに長く生きれない。残りの人生をうまく活用するしかない。
朝、レオパレスを出て川を渡る。川を渡るときが一番寒い。渡りきったら、なにかいいことあるかもしれない。そんな心の遊びをしながら毎日大病院に通っている。
夜を駆ける
シャワーを浴びて、手早く準備をすると、車に乗り込む。ハンドルは冷たい。震えながら山道を駆けていく。しばらく走らないと足元を温める暖房も冷たいままだ。
途中で眠くなるのを防ぐために窓は全開だ。カチカチと歯の奥を鳴らしながら運転していく。
30分ほど山道を走って、無人の自販機コーナーにつくと、ようやく一息つける。
今日も無事、点滴がとれますように。静かにそう思いながら、コーンポタージュスープを飲む。
急がなくてはならないのはわかってる。朝の1分は夕方の30分にも相当する。でも少しだけ、心を落ち着かせる。そうしないと毎日がつらい。
点滴をとるときは手が震える。いくら数をこなしても、やはり緊張するし、本態性振戦もあるからだ。震える人に点滴なんて入れられたくないだろうな、なんて考えながら一回で成功するように慎重に針を進める。
もう祈りの言葉なんて忘れた。だけど点滴の針を進めるとき、僕は確実に祈っている。
こんな数ヶ月を送っていた。
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二度とは行かぬ場所。

いつも使ってた、印鑑付きのボールペンをスクラブに付けたまま、クリーニングに出してしまったことに気づいた。びわ湖医科大学から卒業記念にもらったものだ。
クリーニング業者に電話して回収しようと院内PHSを取り出して、電話するのをやめた。
まぁいいか。
僕はびわ医には受け入れてくれたことを感謝しているものの、マッチング面接の際に手ひどくやられてなんだか複雑な想いを持っているのだ。
マッチング面接のとき、留年したことをこっぴどく追求され、暗に来るなと示された。留年したことだけではなく、再受験したことまでも否定された。
もう二度と行くものか。
どうして留年したの?
二人がかりで何回も追求され、こてんぱんにやられた。元々マッチングの滑り止めとして受けたからいいものの、大学病院で大勢で楽しく研修するという淡い想いはなくなった。
持病のせいで計3年以上は寝込みました。留年中は歯を磨く気力さえなくて、奥歯を二本失いました。
どんだけ言おうか迷った。でも言ったところでかえって逆効果だったろう。
医者は医者の病気に厳しい。
マッチング面接を終えて、僕はもう二度とここには来ないんだろうなと思った。免許をとったらさようなら。
勉強を終えて、夜のびわ湖沿いの道路をドライブ。かけがえのない時間だったけれど。
若い頃は今いる場所をやがて苦々しく思い出すなんてことがあるとは思いもよらなかった。
そんなことを想いながら、PHSをしまい、アマゾンで新しい印鑑付きのボールペンを注文した。
いつの日かこの場所を出ていく
僕ら、だから