「Free Tibet.」と家までのロングウォーク。

「Free tibet」編
唐突な話しだけど、22日に行われた中国に弾圧されているチベットのためのデモ行進に参加した。
ゆっくりとした土曜日を家で楽しんでいたら、二年前に昭和大学の受験会場で知り合った友達からメールが来た。何でも六本木でデモ行進があるから行かないか、との誘い。試験が残念な方向に一段落ついたので参加したいのだが、一人では勇気が出ないので...ということだった。
時計を見るとギリギリで間に合う時間。チベットでの弾圧の話しを少し知っているという程度で参加していいものかどうか迷ったけれど、参加することでより詳しくチベットの現状について知ることができるだろうと考え直して参加することにした。
六本木で待ち合わせをし、つもる話しもそこそこに集合場所の三河台公園に行く。小さめの公園はチベットの旗やプラカードを持った人達でいっぱいだった。チベットの現状を知らせるビラを配っている人、プラカードを持ってくれる人を探す人、などなど。
日本から遠く離れてるチベットで行われている事に対して、痛みを感じて行動をする人達。別にクリスチャンのように「良いことしなさい」と心理的プレッシャーをかけられているわけじゃないのに、素晴らしいなと思った。
初めてのデモ行進は戸惑いもあったけれど、気がついたら何度も何度も「Free Tibet!」と声を枯らして叫んでいた。叫んで何かが変わる保証はないのだけど、生きていく限りは死ぬまでに少しだけ世界を良くしたいと思った。
「家までのロングウォーク」編
実は僕にとって、六本木は鬼門なのだ。六本木に行くのは二回目で、一回目は六本木ヒルズが出来てすぐだった。ぶらぶらと遊びに行き、映画館で遅い時間帯の映画を観てさぁ帰ろうと思ったら終電を逃していて鷺沼から青葉台まで泣きぬれつつ歩いて帰ったというエピソードがある。距離にして7km。
そして今回もやってしまった。デモ行進を終えて、友達の家で夕飯をごちそうになり、エンタの神様を見てたりしていたら終電を逃した。しかも武蔵小杉の一個先の武蔵中原。家までの距離にして15km。ふっ、もちろん歩いたさ。お尻の筋肉が痛い...
人間観察記。

「本当に見たんだよ、スカリー」
「モルダー、あなた疲れているのよ」
(海外ドラマ「X-file」より引用)
「X-file」に「月曜日の朝」という話がある。これは何回も同じ月曜日を体験するという話だ。僕の生活もこれに似てる。毎日が気楽な日曜日であり、憂鬱な月曜日でもある。うむ、小粋なセリフだ。
さて、今日もすかいらーく中山店にいるのだが、店に着いた時は異様に混んでいた。どうやら卒業式帰りのママさん集団がすかいらーくに来てた模様。3時くらいには空いてきたのだが、今度はかたぎでは無さそうな男性たちが水商売ちっくな女性を連れて来店。こんなに面白い観察対象がいたら困るじゃないか、まったく。
写真はホットココアとバッテリーを替えたばかりのグラストラッカーと恩田川沿いの風景。写真を三枚まで添付できると知って試してみた。
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やっと肩の荷が降りた。

というのは「カトリック教会のM神父について」という記事をようやく書けたからだ。何度も書こうとしたが、どうしても書いている内に怒りが収まらなくなってしまい、結局書くのをやめていた。なんとか怒りを押さえて書いたけれど、それでも結構とげとげしい文章になってしまった。人を赦すことがこんなにも難しいことだとは知らなかった。
M神父の不正に声を上げた人は多かれ少なかれ神父とその周りのイエスマンによって嫌がらせを受けた。僕も例外ではなく、神父のイエスマンその1の典礼委員長に僕の聖書朗読日を勝手に「朗読者:未定」とされ、「あなたが朗読するのは典礼上ふさわしくないから小聖堂で祈ってなさい」と言われたりだとか、神父の熱狂的ファンの信者にじとーっと蛇のように睨まれたりだとかした。気持ち悪いよ。
中でも一番気持ち悪いと感じたのがM神父に心酔しきっていた大学生の男の子だ。M神父のしたことについて何か言おうものなら「そんなことは聞きたくないです!」と語気荒く会話を打ち切った。彼のような若者がM神父のいう、信仰心豊かな若者なのであろう。
実を言うと僕はもう1年近く祈りもしていないし、ミサにも参加していない。怒りが邪魔をしていたのだ。二年近くかけて作った自分の居場所を奪われた怒り。
最初は無理に押さえつけようとしていたが、駄目だった。そのうち諦め、怒るに任せることにした。
ひどい時は一日中、怒っていた。怒ることで何とか前に進む気力を保持していたのかもしれない。
もうそろそろ、いいんじゃないかな。多分、写真のような春先の穏やかな日に僕は怒りと和解するだろう。そしたらどこかの教会のミサに行けると思う。藤が丘以外にも教会はあることだし。